言葉を失う?中国の教育事情

中国の教育事情を私なりにまとめた記事を送付したところ、編集の担当者からとても興味深かった、とした上で

「すさまじい過熱状況なのですね。
…いや、それにしてもすごい教育状況です…。言葉を失いました」

という第一報が入った。
確かに、普通の日本の人が見たらこう感じるんだろうなと改めて考えてしまった。

私は本質的な批判に議論の焦点を合わせたいから、中国の毒々さを際立たせるのは悪趣味なので避け、淡々と書いたつもり。それでもやはり、「事実」が日本の常識からすれば、相当刺激的なのだな、と認識を新たにした。

中国の教育も中国社会に根付いているものだから、そのへんの背景の一部として理解しないと、誤解されやすい。中国の独特の理論はまた、ここにいないとなかなかわかりにくい。これらの背景をなしに、ある事実だけ、日本の「常識」にカセット式に当てはめると、とんでもない誤解を生むから、ここは注意が必要だ。

例えば、中国では元々はっきりとものを言い、はっきりと勝ち負けを決める競争が当然のようにあり、負けたものもいつかは絶対勝ってやると思って踏ん張るそういう社会だ。教育でも然り。日本のようないい意味でも悪い意味でも思いやりとか平等とかというコンセプトは全くない。

一番の問題はひとつの基準に極端に集中してしまい、それ以外の道が開かれていないことかも。日本でも受験はあるし、それは程度の差であって、どこも同じ。ただ、受験で名門合格以外でもやっていく道が残されている。中国は学歴社会となると、それ以外の道が社会的に示されていない。

CCTVの「中国好歌曲」できいた「鳥人」という曲がすごく気に入った。フィルコリンズみたいな透明感がある歌だ。これの歌詞も「私は飛びたい。飛ぶか、それとも墜落か」という2者選択が極端なのが、とっても中国的。

中国社会全体にある不安感、これは大きいだろう。日本も最近は底抜けになってきているけど、ちょっと前までそういう感覚はなかった。今でも「飛ぶか、墜落か」という発想は日本にはない。

この危機感、将来への不安が中国の教育でも極端に子供の学業成功での出世にかけてしまう社会背景の一つかも。

これ、本日の北京なり