時代に翻弄される中医

中国の伝統医学を中医と呼ぶ。あれ?漢方のこと?と聞かれれば、そうなのだが、専門的にはこの2つは根は同じだが育ちが後者は日本なので分ける。主に生薬の種類が中医は日本の漢方の約3倍の300種類以上あって違うのと、依拠する中心的な古典が違うらしい。

 

で中医は古代から数千年受け継がれてきて、明清時代にはかなり隆盛したらしいが、現在は多くの治療方法や薬の処方などの伝統が途絶えているという。

 

日本でも明治維新後は漢方廃止制度が引かれたそうだが、中国でも同様に20世紀に入ってからは西洋医学に圧倒されて禁止令が敷かれた。しかし、そこは、本場の意地、それに反発して1920年代、30年代には逆に中医養成学校があちこちで設立されて中医の人材育成が盛り上がった。その後、日本の侵略、新中国の設立を経て、1950年代には衛生省内に中医局が設立され、北京中医学院も設立された。

 

しかし、問題は個人開業医を許可せず、西洋医の大病院に勤める形でしか中医が存続できず、それまでの子弟制による伝承が不可能になったことという。更に、1999年には4年以上の学部卒でないと、医師免許が取れなくなり、在野のたたき上げの中医の多くが違法医者扱いされ、消えて行ったという。

 

その間、60年代、70年代の文化大革命では、中医は破壊すべき「四旧」と位置付けられ、明清時代から伝わる多くの書物が焼かれ、医師がリンチに遭い大打撃を受ける。全国の中医病院は1959年には1371カ所、医師36.1万人だったのが、文革後は129カ所、24万人と10分の1以下に激減した。文革後の1978年に中央は「中医人員に対する間違った態度を修正する」よう宣言することから始めなくてはならなかった程だ。(「56号文件」)

 

文革後は人材も物資もあらゆる面で荒廃し、日本を訪問した衛生相は、針きゅうの中国人専門家の派遣を要請されたが、中国国内で適任者を見つけられない程だったという。

1986年12月に国家中医管理局が設立。(88年に「中医薬」に名前変更)

90年代、2000年代は中医の伝統喪失を危ぶむ声や議論が多くきかれた。

2010年代に入ると、世界的視野で中医が捉えられる動きが強まる。2010年にはユネスコの非物質文化遺産リストに中医針きゅうが、世界記憶リストに中医の古典「黄帝内経」と「本草綱目」が記載された。

 

2016年には中医薬発展戦略計画綱要(2016-2030)がだされ、中医薬の戦略性が語られる。2017年には「中医薬一帯一路発展計画2016-2020」がだされる。

 

今では「中医薬学は中華文明の宝箱を開ける鍵」(人民日報2017年7月)などと言われるほど偉大なる中国文明の輝ける遺産と位置付けられている。この国の人同様に、ドラマがいっぱいな中医の歴史である。

 

これ、中医の来た光と茨の長い道なり。