理想の職場は食糧ステーションだった

中国の70歳代の人達が生きてきた過去というのは日本から来た私には想像もつかない世界だ。

(もう一人の70歳後半の爺さんを指して)「本当は彼の兄弟も彼の前に一人女の子が生まれてたんだ。彼の両親は男が欲しかったからその子を生まれてすぐ水に沈めて始末してしまったんだ。それに引き換えうちの両親は良かった。9人生まれて上8人は皆女だったけどそんなことはしなかった。6人目は3歳の時人にあげたけど、それよりはまし。一番下の女の子は9歳の時できものがでて高熱がでて死んでしまった。だから今生きているのは7人、一人は自分の家で死んで、一人は人の家で死んだ。」

「6番目の妹が子供のいない夫婦にもらわれていく時のことは覚えている。泣いていたが、泣いても無駄。その子は9歳の時、寄生虫の虫下しの薬の量を間違えて一気に3粒飲んで、そのあと腹痛を起こし、血を吐いて死んでしまった。病院に私も行くと母さんにいったが、お母さんは私に妹をあわせたくなかったから連れて行ってくれなかった。」と、この家の長女として育った今は70半ばのおばあさんは言う。

その後自分は中学校を卒業後地元の経理の仕事について「幹部」にもなった。結婚して子供も生まれたが二人の仕事場がばらばらで、夫婦別居が10年続いた。夫に北京で安定した職がようやく決まり始めて家族が一緒に居られるようになった。結局自分は家族を優先して、地元の仕事をあきらめてこちらに来た。その時の移動の規定では、北京に来るには「幹部枠」はなく、一般職員としてしか移動がゆるされなかったからだ。自分は「食糧ステーション」の一般職員になった。

その移動に後悔しているようだったので、「もし、自分で100%自由に選べたら何をやりたかった?」と聞くと「食糧ステーション」という。二番目は「食肉ステーション」とか。

一番行きたいところに自分は行けたんだ。その時食糧チケット1枚で普通は1斤の米と交換だったのに、自分は内部職員扱いで、古くて細かくなった米2斤と交換してもらって、本当にうれしかった。

まずは生きていられて、そして食べ物が十分に得られてナンボ!という世界を生き抜いてきたのかと思うと、茫然とした。強がりか本音か分からないこの答えが妙に心に沁みた。