中国経験者の年輪

ある日本の職場から中国について知る講座で喋ってくれと依頼された。

そこで、中国と日本とはどこが違い(what)、それにはどう対応したらよいか?(how)という話を準備した。

自分の周りで「あっ、この人かなり中国のこと詳しいな」と感じさせる日本人に共通するものがある。それは何かと考えた。

究極的には中国のどんな困難にも動じず、それを苦笑いするか、もしくは笑い飛ばして突き進むことが出来る人。これが年輪を重ねた中国経験者のように思う。

私も以前、参加型農村開発についてレクしてくれと依頼され、当時NGOの代表をしていた中国人の友人Zさんと一緒に引き受けた。

このZさんは聡明ながら、人柄は穏やかで欲がなく私も絶大な信頼を寄せている人だが、一緒に仕事をするとなると、やはり中国人だった。

レク予定日の数日前までに彼女と私の講義内容のすり合わせをすることにしていた。しかし、彼女は何度も仮締切を押し倒し、全く手付かず。ヒヤヒヤかつ彼女の「プロらしからぬ」行為にイライラしつつ当日を迎えた。

このイライラ経緯を、中国の田舎のNGOで頑張っていた日本人の友人に不平がましく漏らしたところ、彼女は笑って言う。「あるある。そうですよね〜。」と。

考えてみれば、彼女は私以上にこうした機会にさらされてきているから、中国人側が事前にこちらの指示通り進めていないのは慣れっこだ。彼女に笑って諭されたとき、はっとした。彼女は紛れもない「中国経験者」である。

(後日談だが、いざ蓋を開けてみるとZさんの講義は素晴らしく、受講生の評価も非常によかった。計画的に着実に準備するのが日本人の能力なら、中国人はたぐいまれなアドリブ能力がある。)

この反対の場面もある。中国のちょっとしたことに目くじらを立てている人に出会うときだ。

先日、北京大学を卒業後、数年国内で働きその後20年近くを米国で暮らして中国人の奥さんとアメリカ生まれの子供2人家族を連れてこのほど帰国した中国人の友人と会った。

彼は米国の病院勤めが長かったこともあり、殊更に衛生的。両家族で春節のお祭りに出かけたが、まず人混みを見て、「帰ろう」と言い出す。お祭りといえば、賑やかな人混みでの怪しげな食べ物の買い食いやゲームなどが面白いのに、露天商の食べ物は断じて食べない。中国政府相手の引越し手続きも面倒で、もう嫌だという。上海人の奥さんも中国の横柄さや煩雑さに負けて弱っている感じだった。

こんな彼らを見ていて複雑な思いがした。彼は本当に中国人なんだろうか?こんなに文句を言っていては何も楽しめないのではないか、大丈夫だろうか?という心配。そしてその一方で彼をそんな目で見る自分は麻痺しすぎてしまったのか?という心配だ。

勿論、彼の言うことはわかるし、中国政府の理不尽な手続きには私も頭にくる。そんな時は杉並区役所がひどく恋しくなる。

それでも、何だかそういう中国に正面から不平を言う彼を見て、きっと自分も中国に来たてのころはこんなことを言っていて、中国の友人は今の私のような思いで当時の私を見ていたのだろうと思えてならなかった。つまり、経験が浅いということだ。

経験豊富で健康な神経が麻痺してしまうのは困る。普遍的に悪しきことに目をつぶり、「こんなもんだよ」と言うつもりは毛頭ない。

でも、中国の目に付く悪さに慄いて萎縮してしまうのももったいない。笑って困難を克服するそんなしたたかさと強さを持った人が中国で奮闘し続けられる中国経験者なのだと思う。

これ、本日の北京なり。