半田ハナさん その1

半田ハナさんという明治18年生まれの婆さんの話。

ハナさんは埼玉県入間郡の貧農に次女として生まれ、小学校にもいかず書けるのは自分の住所と名前だけ、文盲だった。20頃こうもり傘と風呂敷を背負って東京に一旗あげようと上京。田舎にいても仕方がない、出てきて、なんとか成功したい、頑張ろうという強い気持ちがあった。

同じような意思を持って群馬県新田郡から上京してきていた半田梅吉さんと出会い結婚。梅吉さんは中農の出身で寺子屋で文字・漢文を習い字も上手で手は器用だった。二人は最初は果敢にトライしたが、失敗続きで、借金取りに追われる日々。ある日、その金貸しにあと数日待ってくれと頼んでいると、金貸しが散々罵倒した挙句、馬鹿にして薄笑いを浮かべてこういった「貧乏の棒が自然と太くなり」と。その時、ハナさんは「絶対見返してやる!」と思ったという。

貧乏で苦労し、下町の長屋住まいの時、長女の「長子(ちょうこ)」を結核で19歳の時に死なせてしまった。「お前、貧乏ほどおそろしいことはない。お金がないのは一番悔しいよ。お金があってちゃんと病院で診てもらえば助かったかもしれない。迷信を信じて裸足で朝露を踏ませたりして馬鹿だったよ。」「長子がある日、他にろくな食べ物がないからたくわんを食べて『お母ちゃんこれはおいしいね』と言ったんだ。たくわんなんかでそんなことを言うなんて。あの子には苦労させたよ」といってはらはらと涙をこぼした。

医者にもう長くはないと言われてから、ハナさんは娘の長子に日本髪を結って綺麗な着物を着せて写真をとった。そんな写真があった、と悦子はいう。

しかし、二人は邁進し、梅吉さんはゴム草履は売れると睨んで、それが当たった。1922年大正11年、ちょうど震災の前の年、1000坪の土地を買い、夢見ていた自分の家と工場を箕輪に建てた。1丁目の子供たちにお菓子を配り、太鼓を打ち鳴らした。自分のハレの日をこうして祝ったという。