「米あり、水あり、泊まるところあり、この先半田」

新築しようやく成功を噛み締めていた時に関東大震災が起こった。ただ事ではないと思った。自慢の家はビクともせず無傷で残った。
「困っていることきはお互い様」。

ハナさんは自分の家を開放して炊き出しをすることを梅吉さんに提案し、家中の使用人などを総動員して家を開放した。梅吉さんは得意の習字で「米あり、水あり、泊まるところあり、この先半田(→)」というチラシをしたため、三ノ輪の駅から15分くらいある家まで張り出した。ハナさんが数えた人だけでも260人を世話したという。廊下にも人が寝ていた。中にはおにぎり一個を食べて行っただけの人もいたし、一晩泊まった人も、そしてそこで出産をした人もいたという。

産気づいた野崎さんが駆け込んできて、ハナさんは「やってやれないことはない」「女手が要るすぐお湯を沸かしな、女中部屋に行きなさい」と指示をだし、自分は手を石鹸で洗い、白い割烹着に着替えて、赤ちゃんを取り上げたという。生まれてきた子はその後も母親に連れられて「命の恩人」であるハナさんのところによく挨拶にきて、畳に頭を擦り付けるように挨拶をしていたのを孫の悦子は見て覚えている。

この時生まれた女の子が年頃になると、ハナさんは結婚相手まで紹介した。結局その縁談は成立せず、野崎さん娘さんは南アメリカに移民に行く人のお嫁さんになった。

震災ですべてがめちゃくちゃになると米の買い占めが起き、値段は高騰したが、それでもハナさんたちは米を買い、炊き出しで提供した。
ハナさんは「働けば必ず取れる」「全部使ったってまた、稼げばいい」といった。

それを聞いて感動した梅吉さんの弟、田中のおじちゃんは群馬県新田郡から米俵を馬に乗せて25〜30里離れた三ノ輪まで運んできたという。しかも、途中馬が荷物が重くて可愛そうだと自分も馬に乗らずに降りて歩いて。感謝を表してくて、その田中のおじちゃんの脚をハナさんは日本酒で洗ってあげた。そして、またチラシを書き足した。