写真を撮ることと文章を書くこと

今年こそ写真を学ぼうと決め、資生堂やクリニークなどの一流広告写真をとってきた田中先生の講座にでた。

例えば宝石写真を撮るには、まず宝石のことをよ〜く勉強しないといけないという。
どういうカットなのか、どういう石なのか、どこが魅力なのかを知り尽くしていないと良い写真は取れないと。

写真を撮影する被写体をこれまでその会社の人はどれだけ時間をかけて開発してきたか、と考えるらしい。自分が撮る商品や人物への深い理解と一種の思い入れがないと良い写真は取れないと。

徹底的に対象を研究して自分との距離を縮める。

そして、良い人物写真をとる為には別のトリックがある。それは、相手にリラックスしてもらうことだという。

一つ、ひどく納得したのは、ある受講生が最近子供を撮ろうと思っているのですが、子供を撮る上でのコツはなんですか?と聞くと、先生の答えは非常にシンプル。
「子供の写真は、親以上にいい写真は取れません」と。

なるほど。
子供は親の前ほどリラックスすることもなく、また、親ほど子供を理解している人もいないということだろう。

そう聞いたら自分ももっと子供の写真を撮ってあげなくてはと思えてきた。

それにしてもカメラの世界で、レンズを通して捉えて表現しようとする被写体と自分との関係と、文章を書く時の事象、人、国などの対象との関係にはパラレルするものがあると思った。

自分が何を表現したいのかという主体性がまずなくてはならないし、また、表現しようとしている対象についてとことん理解していないと描けない。

そして、その対象を描く場合一種の思い入れのようなものも必要となる。相手に敬意を払えないようなものについては良い写真も良い文章も成立しないということだろう。

メカによる技術など側面的な技術はいろいろあるが、最終的には感覚と相手への理解、そして相手との距離、どうもこういうことが大切らしい。

これ、本日の北京で考えた撮ることと書くことなり。