ろくよんと他の家の問題

先日ろくよんを再評価せよという小規模な知識人の集まりを持ち、その内容をネットに流した

として著名な弁護士らが逮捕された。

知り合いが直接この弁護士と交流があり、抗議アピールを出したので署名しないかと言われ、

考えて、いろいろ中国の当事者たちに聞いてみた。

当事者というのはろくよんに当時学生として参加した40代の人だ。この件について日本

人が抗議することをどう思うかと。

その人の答えはこうだ。今年のろくよん再評価への動きはこれまで以上に強い。そういう

時期に来ているのかもしれない。政府の締め付けは当然とんでもない。その一方で、自

分の家の問題は他の家の人からは指摘されたくないという心理もある、と。

自分の家の親が間違っていると家族全員思っているし、その事で家族みんな困ってい

るし、批判もしている。いろいろ働きかけて間違っている親を正そうとしているし、そう望

んでいる。

その一方で、自分の親の間違いを他人から指摘され、批判されるとちょっと事情が変

わってくる。これは我が家の問題だ、他の家の者は善意であれ口を出してくれるな、と。

中国のじんけん蹂躙の現状を批判するのは当然だし、あるべきだが、それが週刊文集

などに所謂アンチ中国一色の文章として登場するとまた、ニュアンスが変わってしまう。

それを読んで中国を批判する読者は本当に日本国内でも権力に立ち向かい、人権保護などを支援する

人なのか?そういう普遍的な価値を共有するものとして今の中国の現状を批判するの

はよいが、単に中国が嫌いという視点からこれをネタにするのはお角違いというものでは

ないか。

むしろ、こういう非常にデリケートでこの国を変えようとしている人にとって緊張を要する

テーマの時は、こちら側も彼らへの様々な影響を考えて慎重に動くべきではないだろうか。

彼らが海外でアンチ中国の材料として使われた瞬間に、我々は中国政府に彼らをアンチ中国の材

料を海外に提供するバカ、と批判する口実を与えてしまう。

普遍的な価値を追及するということだけにこだわっての純粋な批判でないと足元を掬わ

れる。微妙なさじ加減を要される似て非なるこの二つ。むずかしいところだ。

これ、本日の北京で考えた事なり。