中国教育改革の行方、人間本位の教育への転換は可能か?

昨日は北京師範大で全国の先生研修をしている先生に話を聞いてきた。

いろいろ話しているうちに実に面白い点に行きついた。トップダウンの行政命令によって、中国の教室における先生のトップダウンや力による教育を改めようとしているという矛盾だ。そのしわ寄せは先生に行き、先生はかなりのプレッシャーを感じている、と。

教育は中国に限らず実に複雑なのだが、なるべく簡単に。
もとより、中国の教育は悪名高い。そのことは外人が偉そうに指摘する以前に中国の人がよ〜く分かっていて、私が会った人ほぼ100%が批判している。が、実態はなかなか改善されない。

97年から中国の義務教育では「教科書改革(「課改」)」という名の教育改革を開始した。その時のキーワードは知識のつめこみを脱した「素質教育」というもの。テストバカではなく、生活の上でも役に立つ全人格的な能力を身に着けよう、というもので、現代教育学の潮流に中国も合流べくハンドルを切ったわけだ。

それから20年近くがたった。その間、すこ〜しづつではあるが、生徒を人間として重視すること、単なる知識を注ぎ込むテストマシーンや「樽」ではなく、生徒は人間であり、その人間との交流を通じて教育する必要があることなどを先生たちには啓蒙してきたらしい。

昨日の先生は「これは大量の無駄も出しつつ、最初はどうしたらよいか分からない先生たちからも大きな抵抗にあい、少しづつ進歩した実に苦悩に満ちたプロセスだった」と振り返る。まずは、先生たちのレベルが低く、彼らにある意味で最先端の人間の関係を理解し実施してもらうのは実に大変だったと。確かにここで訴えようとしている価値観は中国では極めてバタ臭い、西欧的な感覚だ。

いずれにせよ、今の負担削減などの改革はすべてがこの90年代後半の改革の中で位置づけられるということが分かった。

そして、その改革はずっと同じ(あるべく正しい)方向を向いて進んでいる。そして私の感覚では、この数年で確かに大きな違いが出ている。まずこの1年半で宿題が減った。そして先生たちが口にすることが実に進歩した。


私も5年前の小学校の保護者会と今年の9月の保護者会とでは大きな差を感じた。子供本位で、美しく見える授業ではなく、生徒が分かる授業をする、などという。いろんなキャッチワードが進化している。宿題もぐっと少なくなり、子供も元気になってきた。

習近平政権下での教育改革は如何かと聞いたら、まだ具体的に成果を判断するには日が浅いというが、現場でのプレッシャーはすごくあるという。言ったらやる、腐敗は許さない、という政治改革の圧力はかなりあるという。そして先生たちは、教育局からしょっちゅう出される新しいイベントや運動、そして視察に対応しなくてはならなくて、負担はすごく増えていると。

各種ノルマが課され、それは命令として上から降ってくる。先生たちは非常に受け身でそれをこなさなくてはならない。1時には子供を帰宅させよとか、宿題は出してはならないとか、物理的なルールがある。ただでさえ先生たちの給料は他と比べて高くなく経済的にも何も良い点はないのに、いまでは上からの命令、ノルマ、視察に先生たちはアップアップという。

つまり、先生たちは教育局の人たちから「人本位の、人間性を重視した」教育を子供たちに行うべし、子供に力による教育をしてはいけない、というルールを力で押し付けられているのだ。政府役人は先生たちに対して教室で生徒の声に耳を傾け、民主的な雰囲気で交流するように、非常に非民主的な方法で押し付けているのが実態だ。

結局のところ、中国の教育で問題視されている生徒に対する力づくの教育、その背後にある人間性の軽視、乱暴さ、非文明的で牢獄のような多くの規則、というものは、中国社会全体に見られる問題点でもあるのだ。教育では相手が真っ白な子供だけに、親は学校の乱暴さが良く目につきそれを自分の問題として批判するが、結局のところ、この社会全体がより人間重視になり、民主的にならない限り、教室内だけで改善されるはずはないというのが結論だ。

教育問題は決して教育関係者だけで解決できる問題ではない、と。
だからこそ、改革は遅々としか進まない。とはいえ、向かっている方向は正しく、1ミリといえども進歩はある方がよい。この先生も果断に「権力を檻に入れる」べく習が実施しようとしている政治改革に、「市民が満足する教育」を目指す現政権に期待しているという。

どこから手を付けたらいいのかわからないのが中国だが、変化は確実に起きているのも事実。人間を重んじる教育がこの国でももっともっと広がるよう祈っている。