資本主義とNATIONALIZMと中国について考える

本日はアメリカの人類学者の中国のナショナリズムに関する講義を聞いた。彼曰くナショナリズムと愛国の違いは前者は自分が特別であり、それゆえ自分の利益は他より優先されるべきと考える。また、他民族を比較して自分の歴史、文明、文化、世界観は特殊であるという語りを行う。決定的なのは、比較を必要とする、相手、他者、敵を必要とするという。そして、マルクス主義や宗教には複雑な論理的構造があるが、ナショナリズムはない。道具は歴史、伝統、過去の栄光へのノスタルジア、ヒーローという感情のみ。コアは空っぽという。ナショナリズムを作るのはエリートたち。これを使って国民を団結させ、外交の手段に用い(反対しているのは政府ではなく、市民というロジック)、敵に立ち向かう自分を正当化させる。

さらに、60,70年代には人類の進歩と共にナショナリズムを克服できたと人々は考えていた。が80年代のロシアの崩壊と共に爆発。それも民主化が進めば克服される、一時的なナショナリズムと思われていたが、そうはならず、今世界中でナショナリズムが勃興している。その共通する背景は、資本主義システムの中で国は資源競争をするという現実。世界経済で生み出される利益は減っており、それをうまく回すために国が介入し、投資しシステムを回そうとする動きが働く。その時、ナショナリズムは便利な国の道具であるために利用される、と。

中国のナショナリズムは過去30年間になかった勢いで伸びている(クリスマス禁止、漢服復古、孔子、炎黄皇帝の復活、魯迅の衰退、言論引き締め等に見られる)。それは犠牲者の語り(西欧と日本に侵略された)、災害、試練、人口などから特別であるという語りがされている。取りつかれるように比較する対象は米国と日本。共産党こそが、中華文明の正統なる継承者で、国を救えるというメッセージ。国のイデオロギーは社会主義ではなく、ナショナリズムだ。共産主義からの根本的シフトが見られる、という。70年代の文革で人々は社会主義に幻滅し、80年代は”小康社会”をめざし、経済成長で気を紛らわしたが、90年代になりリッチにもなってきた。ここにきて国の求心力は落ちてきて、ナショナリズムが必要となっているのが原因。中国文化を定義し、それ以外を排除する動きがあり、伝統文化や儒教を批判した魯迅も隅に追いやられている。炎黄皇帝を祭りはじめているが、これは社会主義ではない。失われた昔の伝統を作っている。

問題点は1、漢民族中心のナショナリズムは多民族主義(孫文の五XXX)を否定、2人種差別的可能性を秘めている、3自分で煽っておきながら制御不可能になる可能性がある、4外交において妥協の選択がなくなる、5中国のイメージダウン、6盲目になり、タブーをも犯してしまう。

我々はまずはすぐ頭に血を登らすのではなく、なぜ相手がそうなのかを考える必要がある、と。エリート、知識人ならナショナリズムを抑えるために声を挙げるのがその責任。

ん〜。正直講義を聞いて気が重くなった。こんなにひどいところに自分はいるのかと。確かにトレンドとして政権は意識的に中国伝統文化をあおっており、社会杉核心価値を学生に暗記させ視察団を送ってチェックしている。異論を言う人は捕まる。クリスマスではなくて、毛の誕生日を祝おうという微信のメッセージも確かに来た。

ただ、中国政府というのは昔から変なことをしてきているし、CCTVや人民日報は変な報道をしている。一般市民はふん、と鼻で冷笑し、まともに受け合っていない。私が知りたいのは、政策ではなく、市民の受容、浸透の度合いだ。中国は広いからいろんな人がいる。ごく一部の人なのか、それは一定の勢力となりつつあるのか、そうだとすれば、彼らはどんな人で、それはなぜなのか?

何だか急に生きにくい世の中に向かっているように感じる。
一方、楽観主義者の中国人の知人は、老外が見る中国と僕の中学の同級生たちが生きている中国は全く別、ちゃんとリサーチしたわけではなく、断片的な現象を拾って指摘しても、中国は広いのだから何とも言えない、と。指摘するほど深刻ではない、という。そうだといいのだけど、私の頭は少々混乱している。

これ、本日の北京なり。