中国人の見る中国と外国メディアが伝える中国

この前のナショナリズムに関しての最後で、中国人は外国人が見る中国はそれは違うという。

この話を日本の主流メディアの現役記者に言うと、この人は膝を叩いて、そうなのだ、いつもそうなのだ、中国の人はいつもそういうが、それはずるい。という。日本だって、アメリカだって、外国から見た側面と国内の人が見る者には差があるだろうけど、そういうものだ。中国だけそんなのへんというのは変だ。

この問題は結構複雑だ。なぜなら中国の悪い面は非常に分かり易いからだ。例えば強権主義、権力が暴力的な中国。これは非常に分かり易い。

その一方で、そういうひどい政府の下に長くいる庶民はそれなりの防御方法を身に着けている。如何に権力を自分も利用し、好きな事をやるかを考える。自由について考えているひとも、どうしたらより現実的かと考える。政府のいう事をそのまま信じる人はいない。

こういう面は見えにくい。

日本はその反対。日本の悪いところは長くいないと分からない。が、良いところはすぐに分かる。礼儀正しい、秩序立っている、おしゃれ、職人気質、真面目、などなど。

学校のいじめなどは長くいなくちゃわからない部分だ。

報道機関は権力の在り方、政府の公式見解をその国の在り方として伝えるものだから、それはそれでいい。ただ、庶民がそれをどう受け取っているか、どう対応しているか、も併せて伝えないといけないだろう。

地下鉄が一気に2倍、3倍に値上がりする。市民は如何に上手に切符をごまかすかを研究し、アプリができないかとやる。これが中国だ。

市民が何を考えているかというのはどこの国に関しても容易に把握はできない。中国では特にそうかもしれない。でも、国の政府がとんでもないことをしている国こそ、そういうひどい政府をよそに自由を謳歌するしぶとい市民がいるわけで、その辺も伝えていかないと全体像は伝わらない。

ということで、中国人の言訳はずるいか?勿論政府もイメージを傷つけるようなどうしょうもないことばかりせずに自分でイメージアップになる情報を主体的にもっと出すべきだが、それだけを見て、ほらそれ見たことか、とやるのは片手落ちでもある。外国人が喜んで伝える日本像、中国像はそれなりにバイアスがかかっているのは確かだ。お互い見るものが違うのは当然なのかもしれない。その違いをお互いがどう評価するかかもしれない。

まとまらない、これ、本日の北京なり。