20年後に

普段だったらその時にその場所にいないはずなのだが、今日は例外中の例外でそこにいた。
そんな今日の12時ちょっと前に携帯電話がなり、また上海から押し売りの電話かと思って出ると私をファーストネームで呼ぶ人がいる。

去年の後半にLINKED INだったか何かに確かに彼と20年ぶりに連絡が取れて、今度北京に出張に来たら連絡する、ということにはなっていた。
彼は今北京に出張に来て、ホテルに移動中で近くに居るからお昼を食べようという。

そうは言っても今日はお弁当もあるし仕事もあるから、終わってからコーヒーとなった。

直ぐ近くのホテルに変えたと後から連絡があり、そこへ向かう道で考えた、彼はその後どうなったのだろうかかと。

私は20年前、アメリカの大学院生用の寮で彼の一家と同居した。いわゆるハウスメートというやつだ。
その頃は彼もがむしゃらに頑張っている時で、訛りの強い英語と垢抜けない田舎風だけど、餡マンみたいな見かけ通りのどこか人の好さそうな感じもした。レストランのデリバリーのバイトもしていた。ゆっくりエレガントに話す奥さんとは料理をお互い習ったりもした。2人は大学のイングリッシュコーナーで出会ったと奥さんから聞いた。子供の1歳の誕生日はかなり数日前から料理を仕込んでテーブルにのり切らない程たくさん作った。確か私も少しばかり貢献した。ポテトサラダとかそういう簡単なものだったように覚えているが、奥さんがニコニコしておいしいと言って喜んでくれた。

今日聞いた話だが、92年に彼がアメリカに来た時は現金は300ドルだけ。しかもこれさえも親戚に借りてきたお金だったとか。あとは全て奨学金で、そこに含まれている生活費を切り詰めてお金を貯金したという。

その彼とホテルのラウンジであった。真ん丸な感じは変わらず、明るい青のストライプのしゃっきっとしたシャツをきこなし、髪もちょっと若い感じの刈り上げ風で小ざっぱりしていた。真っ青な皮のベルトについた青と白の縞模様のような大き目の長方形のベルトのバックルだけが、ちょっとイケてない彼さを辛うじて、でも間違いなく残していた。

米国でも化学を習っていたのはかすかに覚えているが、その後99年に上海に戻り欧米大手の薬品会社でかなり長く働いたようだ。子供は2人ともアメリカで生んでいるのでアメリカ人。教育も会社がインターの学費を負担してくれるので、ずっとインターに入れていたという。確かに写真から見ても、2人の男の子は半分アメリカ人という軽い感じだ。

でも、息子さんの話になると、息子とはコミュニケーションが少ない、ほとんど話さないといって表情が暗い。子育ては失敗だった、という。家の写真を見せてもらったがリバーサイドの実に大きな立派なアパートだ。彼のブランド風の服装からしても、今度みんなでご飯を食べようとか、上海に来たら水郷につれていく、とか日本に一緒に行こうとかいう言い方の端々に彼がお金持ちになったという事実が感じられた。

でも、あのアンマンのスンさんというより、今では社長さんと話しているような感じもあり、それはちょっとだけ残念だった。
一時期は家を4つもっていて、今は2つに統合し、1つは外国人に貸しているという。それだけでも十分食べていける収入のはずだ。

ああ、20年。
本当にあっという間だった。彼は中国の富裕層としてビジネスに励んでいる。当時中国人の女の子から人気だった米国人のA君の今の写真を見せたら、「ハゲのデブになっちまったなあ〜昔はカッコよかったのに」と絶叫。我が相棒に関しても太り過ぎと一言正直なコメント。米国人のA君にしても、日本人の私にしても正直、先進国の人間という余裕があった。中国の人に対しても苦労しているのにすごいと心底思ったが、まさかこのかれらより自分が将来質素な生活になるとは夢にも思わなかった。

彼は一体幸せなのだろうか?とちょっと思った。成功をおさめ、大きなリバービューの豪邸に住んでいる。
奥さんは中国のダンスに没頭しているという。写真を見たが、いかにもダンサーといういい顔をしていた。

この20年で本当に変わった。あの当時あの怪しげな彼らが上海の豪邸に住む私の数倍の富裕層となるとは夢にも思わなかった。
田舎から出てきて勤勉で人の悪くない頑張り屋の中国の夫婦だった彼ら。
それが、それが、である。

義理の母さんが言った言葉は本当だ。いつも人生はこのまま平たく同じに続くとは限らないよ。人生は平たんじゃないからね。と。
当時私は高給をもらい、豪華な外国人アパートでの生活を謳歌していたんだっけ。

やっぱりそういうアパートとか給料とかでなく、自分が自信をもってしっかり持っていたいものを大切にしていくしかない。
コアをしっかりもって、と思った。

これ、20年後の再会を果たした本日の北京なり。