任せて競争させる、これ中国発展のエネルギーなり

昨日も知己と会話。

彼女曰く中国の雑誌社の人たち(すべて20〜30代の若者たち)と一緒に仕事をしてびっくりした。異なる雑誌ごとにチームを組み、週のアクセス数を毎週チェックし競争させる。悪かったチームにはなぜ悪かったかを分析、反省させる一方、良かったチームは意気揚々と語る。それを見る他のチームの人の眼差しは「こんちきしょうめ、悔しい」という怨念に満ちているという。

また、この会議で次週のコンテンツに関しての発表など、ボスの発言も含めて全ての発言は3分と決まっていて、もたもたしているとタイムウォッチがジリジリとなって、恥ずかしい思いをするらしい。短い時間で伝達するための訓練を積む道場さながらという。

別の雑誌立ち上げの1回目の会合で編集長が雑誌の構想を発表しても、チームメンバーからコテンパンにそんなの誰も読まない、どういうロジックか全然わからない、と批判にさらされる。それを黙って見ているラオバンは「あとは任せたから君たちで話し合ってやって」と立ち去ってしまったとか。それでも、この雑誌は今やハイピッチで創刊号準備中だ。

よくも、これだけの少人数でこれだけのコンテンツをこのスピードでできるなあ、と感心するのだが、これには仕掛けがある。

徹底した権限の委譲、お任せによる分担とチーム間の競争だ。

経営学の父と崇められるドラッガーの教えもまさにこれと同じだ。大胆に任せて、競争させる、明確な指標でその成果を図り、良く貢献したものには分かり易い報酬を与える、この3ステップが人のエネルギーを最大限に引き出す原理だという。

中国はまさにアメリカの経営学のゴットファーザーがそう指摘する前からそういうことが社会の隅々で行われている。

例えば、区が公益事業で導入しているレンタル自転車。これも最初は朝陽区と東城区の隣り合わせた2つの区だけでテスト導入した。2つの区にやらせるのは競争させるためだ。

幼稚園の管理も同じだ。園長先生は各クラスの担任に授業運営のほとんどを任す。担任は自分で積み木を買ったり、遊具やテーブルなどを購入する。同じ年長組でもクラスが違うと使っている家具や遊具も違う、教える内容ももちろん違う。そして、その成果を園全体の先生の前で発表して競争し合うのだ。横並びとか統一性とかいう発想はない。これも中国ならでは。

小学校も同じだ。1年から6年生までクラス替えがなく担任の先生が持ち上がりなのはある意味で責任制だから。その生徒たちがどこまで成長するか責任を負う。そして先生間で競争させる。指標がテストの点数とか表面的な見せるためだけの活動という部分がもんだいなのだが、この原理はアリだろう。

徹底した委任と徹底した競争。これは教育でも同じだ。中国の教育は育てる教育ではなくて、選抜するためのシステムだ。競争そのものが教育の目的なのだ。だから負けた人は誰も文句を言わない。努力しないからお前が悪い、努力しない足を引っ張る奴を面倒見たくない、学校に来るな、というわけだ。勿論これは極端すぎるが、これが中国社会だ。

昨日の編集会議の話でもピーンときた。確か神戸大の加藤先生も「包(委託)の経済」として中国経済の急成長の原理を説明していたけど、これは本当に正しいと思う。

徹底した競争にさらされても強いのが中国の人。これでもか、という風に批判されてもめげない。こんちくしょう、今度こそ、と力を振り絞る。これは今の若い人たちでも健在ということらしい。

これ、本日の北京なり。