甘えの構造と自殺事件

東京ナウ 今日のニュース3本はいずれも残念ながら自殺と放火事件。

杉並区役所に「最後のお金をもって東北に行きます、お世話になりました」と電話をかけて新幹線で放火自殺した71歳の人の話。
単身赴任先に帰るときに奥さんが玄関まで送ってくれなかったことに立腹して子供達の居る家に放火した男性の話。
「疲れた、死ぬ場所は決まっている」と担任の先生との交換連絡帳に書いて線路に飛び込んだ中2の話。

なんだか、いずれも自分の人生をヒトのせいにしてはいないだろうか?放火犯はちょっと違うけど。
日本のニュースを聞くと「最近ワイパーが引きちぎられる事件が多発していましたが、カラスの仕業と分かりました」という平和さ。
これはありがたいが、何とも村的でもある。

日本人がお互いを思いやるのはいいことだし、中国のように担任の先生が生徒をいじめないだけでなく、いじめを受けている生徒から守ってあげようとするのもいいことだ、優しい。でも、その思いやりが十分でない、とその上に胡坐をかくのは違うだろう。担任の対応に問題があったのではないか、という問題設定もおかしい。そもそも、なんで子供はそんなことを親にも友人にも話せなかったのか?いじめを見ていた同級生はなんで守ってあげなかったのか?なんで彼はもう少し別の形で自分を守れなかったのか。いろんな問題設定は可能なはずだ。先生だけの話ではないだろう。

相手に対してできるだけ、思いやる、優しくしようと努力するのはよいことだが、日本ではいささかそれをはき違えて、曲がってきている。

いろんなことを自分の問題として向き合い、克服する強さを失っていないだろうか?人のために生きているのではないのに。

せっかくの日本の良さを弱さにしない為には一体何が欠けているのだろうか?
こんなことを考えた、これ本日の東京なり。