今の変化VS前からあるシビアさ―中国記事の難しさ

中国の記事を書くのは難しい。広い読者の間で中国の人権侵害、海洋進出、野蛮なごり押しと言うような怖く暗いイメージが頭の中に出来上がっているので、自然といつもそこに打ち込む記事になりがちだからだ。

勿論、書き手の力不足もある。
中国の事象を説明するのは相当の筆力と編集力が必要になる。大抵、目の前で今起きていることは、「元々」ある非常にシビアな現実の延長線でおきていることだ。しかし、それに対して「今は」こう改善したとか、その問題がこんな風に明るみに出て、皆が問題視している、それに対して政府はこうした、など、「元々の根深い問題」+「それに対する新しい今の反応」という2段階の話になる。

中国の場合、元々の状況を説明しようとすると、それがあまりにショッキングなので、読者はそちらだけでお腹いっぱいになってしまう。『やっぱり中国は野蛮なんだね〜』という方向で、既に十分刺激が満載だからだ。

いやいや、伝えるポイントは、そういう「元々の」話ではなくて、確かにそういう部分はあるんだけど、それはニュースでもなんでもない。それは、これまでずっとあった中国の部分だ。

それに対して、「今は」こんなことが起きている、とか、そういう半世紀以上あった問題が今になって注目されている、と言うところが焦点なんじゃないかな。そこから、今の新しさ、新しい風や潮流を説明しないといけないような。

でも、「元々」の中国の現実がインパクトがあり過ぎて、そこで終わってしまいがち。日本の編集者も、それだけで、十分にネタになるので、そこをフォーカスしがちなんだよなあ。

そういう10年一日の如く同じゲロゲロ中国像だけを一生懸命追った記事を読んでも読者は、正直何の栄養に得られないのではないかと思う。

小さいミクロな話から、中国だけでなく、日本の状況についても何かを投げかけるような普遍的な価値から考えるネタにしないと意味はないように思う。

こんな2段階にしていくにはやっぱり筆力が必要。1に努力、2に努力ですなあ。
もっとしっかと書かねばと思わされたワイン&お肉の夜であった。

これ、本日の北京なり