マイケルサンデルに学ぶ中国的思考

2010年頃日本でもかなり注目を浴びた『これからの「正義」の話をしよう』BYマイケル サンデルを遅まきながら読んだ。さすがハーバードというか、さすが30年の講義の集約!滅茶苦茶面白い。

哲学史は何度も授業を真面目に受けてきたが、こんなに良く咀嚼した授業は初めてだ。

私が面白いと思ったのは、中国的な功利主義的思考は、実は中国独特ではなく、西欧でも長い伝統がある、と言う点だ。

中でも彼が最初の方で取り上げているベンサムの功利主義なんて今の中国社会を支配している考え方に非常に近い。政府はコミュニティー全体の幸福を最大にするためにあらゆる手段を取るべきだ。政策の利益の全てを足し合わせ、全てのコストを差し引いた時に、この政策は他の政策より多くの幸福を生むかどうか?が政策の是非を決める。

そのため、実際にベンサムは「貧民管理」というアイディアを持っていたという。物乞いが街にいるのは通行人の心を痛ませたり、不快にさせ、社会全体の効用を減少させる、そこで、物乞いを捕まえてきて救貧院に閉じ込めることを提案した、と。

さらに、この救貧院では物乞いは働き、自分の生活費などを稼ぎ、全ての費用を払輪無くてはならない、というシステムだ。

何と、中国的なんだろうか。

ここには個人の権利の尊重は全くない。総数として社会全体の幸福が増えれば、ある個人に極端な犠牲を強いることも正当化される。

これに対する痛烈な批判がカントの考え方だ。彼は人間性と物を区別する。それを区別するのが、自律的に行動する能力だという。自立的な行動というのは、何かを達成するための条件付きの行動(ばれたらみっともないから嘘をつかない)ではなく、嘘は道徳的ではないから嘘をつかない、となる。

また、人間の尊厳を尊重することは、人格そのものを究極目標として扱うこと、だという。
功利主義にとって理性は特定の目的を追求するため、効用を最大化するたの手段を見つける道具だ。一方カントのいう理性は、道徳に関わる実践理性、理性的な存在はそれ自体が目的なのだ。これが人格と物の違いらしい。

また、本当の自由とは、ある条件のために行動することを決める自由ではなく(テストで満点取りたいから勉強するとか、褒められたいから頑張るとか)、自分でそれ自体の価値を求める自由という指摘も面白い。

人間性そのものを尊敬し、全ての人に平等に備わっている理性的な能力を尊敬する。だから自分の人間性を侵害するのは他人の人間性侵害と同様に良くない。普遍的人権主義に一役買っている考え方だ、という。

また、自由と道徳の概念になしに、自分や人生の意味を理解することは難しい。それは行為者としての観点と物としての観点に、違いがあるからだという。

功利主義的に如何に社会福祉コストを下げるかと考えれば、最終的に人々は早死にした方が良いという極論もあり得る(実際それに似た企業の調査が有ったことにも触れている)。それは人間を物と同一視していて、人格への尊重や道徳という観点が抜けて言るからだろう。

ん〜。すごい。今の世の中は正に普遍的人権などあり得ない、自分さえ良ければよいのだ、という風が吹き、カント的価値観は崩壊の危機だ。

社会の安定のためには少数の個人を捕まえて黙らせておくのも当然なのだ、という理屈は、実は功利主義的理屈として欧米でも歴史がある、ということだ。

さらに、ここで省略したが、個人は個人の全てを所有しているのであるから、個人の合意に基づく限り何でもOKというリバタリアニズム何かもある。

自由とは何か、人間の意味は何か、人生の意味は何か?を理解しようとすれば、自ずと道徳、人間性という観念について考えざるを得ないという。本当にそうだ。

只今、開眼の読書真っ最中、これ本日の北京なり。