寄付した桜のポジショニング

先日、日本から毎年中国無錫に桜の植樹に来ている団体の話を聞いた。1987年以来なので、今年でちょうど30周年という。それは随分と素晴らしいと素直に感動した。
元々この活動を始めた方は戦争で中国に来た人で、二度と戦争を起こさない、日中友好のためにと言う思いを込めて実施しているという。
さらに、その成果は、無錫では彼らが1.5万株近くを寄付し、地元政府も一緒に植えて、今では3万株の桜が咲き、名所にもなっているという。

このことは本当に素晴らしいし、より多くの日中の人にも知ってもらいたい内容だ。
ただ、この団体の人たちと接して感じたのは、高齢化が激しく、しかも若い団員がいない、未来や団体の外への広がりが無いように感じた。
自分たちの活動の紹介もありのままで、間違いはないなのだが、どこか自己満足というか、広がりに欠け、聞いていても心に届かない。

その後、中国のメディアの人とこのことを話したら、彼はこういう。
日本が自分があげた桜、とだけ言ってももう、中国メディアは取り上げませんよ、と。

これは、中国の地位向上による、傲慢さの表れなのか、それとも?
彼は、漢字も中国から日本に輸入されたましたが、その後、日本独自の発展を果たし、国字などもできている。日本で変容し、それは日本のモノになった。
それを中国は違う、とか僕があげた、僕があげた、というのではなく、むしろ日本で根を張ったことを喜んで受け入れるべきだ。

桜も同じという。あげた、あげた、だけではなく、地元に根付いている桜を歓迎する姿勢も欲しいと。

なるほど。ここには、援助評価に関わる根本的な課題があるのかもしれないと思った。
援助するのは、自分があげた事を証明し、自分が偉いということを示すためなのか、
それとも、本当に相手の立場から相手が成長することを支援したいと願うからなのか。
相手の成長そのものを自分の成果であり、喜びとみなすかということかもしれない。

確かに、無錫の桜だって、あげた後に年々手入れをしてきたのは地元の人だ。
何かもっと別の視点がないと、広がって行かない。
それについてハッとさせられ、考えさせらた。

これ、桜が満開の本日の北京なり。


先日、日本から毎年中国無錫に桜の植樹に来ている団体の話を聞いた。1987年以来なので、今年でちょうど30周年という。それは随分と素晴らしいと素直に感動した。
元々この活動を始めた方は戦争で中国に来た人で、二度と戦争を起こさない、日中友好のためにと言う思いを込めて実施しているという。
さらに、その成果は、無錫では彼らが1.5万株近くを寄付し、地元政府も一緒に植えて、今では3万株の桜が咲き、名所にもなっているという。

このことは本当に素晴らしいし、より多くの日中の人にも知ってもらいたい内容だ。
ただ、この団体の人たちと接して感じたのは、高齢化が激しく、しかも若い団員がいない、未来や団体の外への広がりが無いように感じた。
自分たちの活動の紹介もありのままで、間違いはないなのだが、どこか自己満足というか、広がりに欠け、聞いていても心に届かない。

その後、中国のメディアの人とこのことを話したら、彼はこういう。
日本が自分があげた桜、とだけ言ってももう、中国メディアは取り上げませんよ、と。

これは、中国の地位向上による、傲慢さの表れなのか、それとも?
彼は、漢字も中国から日本に輸入されたましたが、その後、日本独自の発展を果たし、国字などもできている。日本で変容し、それは日本のモノになった。
それを中国は違う、とか僕があげた、僕があげた、というのではなく、むしろ日本で根を張ったことを喜んで受け入れるべきだ。

桜も同じという。あげた、あげた、だけではなく、地元に根付いている桜を歓迎する姿勢も欲しいと。

なるほど。ここには、援助評価に関わる根本的な課題があるのかもしれないと思った。
援助するのは、自分があげた事を証明し、自分が偉いということを示すためなのか、
それとも、本当に相手の立場から相手が成長することを支援したいと願うからなのか。
相手の成長そのものを自分の成果であり、喜びとみなすかということかもしれない。

確かに、無錫の桜だって、あげた後に年々手入れをしてきたのは地元の人だ。
何かもっと別の視点がないと、広がって行かない。
それについてハッとさせられ、考えさせらた。

これ、桜が満開の本日の北京なり。


先日、日本から毎年中国無錫に桜の植樹に来ている団体の話を聞いた。1987年以来なので、今年でちょうど30周年という。それは随分と素晴らしいと素直に感動した。
元々この活動を始めた方は戦争で中国に来た人で、二度と戦争を起こさない、日中友好のためにと言う思いを込めて実施しているという。
さらに、その成果は、無錫では彼らが1.5万株近くを寄付し、地元政府も一緒に植えて、今では3万株の桜が咲き、名所にもなっているという。

このことは本当に素晴らしいし、より多くの日中の人にも知ってもらいたい内容だ。
ただ、この団体の人たちと接して感じたのは、高齢化が激しく、しかも若い団員がいない、未来や団体の外への広がりが無いように感じた。
自分たちの活動の紹介もありのままで、間違いはないなのだが、どこか自己満足というか、広がりに欠け、聞いていても心に届かない。

その後、中国のメディアの人とこのことを話したら、彼はこういう。
日本が自分があげた桜、とだけ言ってももう、中国メディアは取り上げませんよ、と。

これは、中国の地位向上による、傲慢さの表れなのか、それとも?
彼は、漢字も中国から日本に輸入されたましたが、その後、日本独自の発展を果たし、国字などもできている。日本で変容し、それは日本のモノになった。
それを中国は違う、とか僕があげた、僕があげた、というのではなく、むしろ日本で根を張ったことを喜んで受け入れるべきだ。

桜も同じという。あげた、あげた、だけではなく、地元に根付いている桜を歓迎する姿勢も欲しいと。

なるほど。ここには、援助評価に関わる根本的な課題があるのかもしれないと思った。
援助するのは、自分があげた事を証明し、自分が偉いということを示すためなのか、
それとも、本当に相手の立場から相手が成長することを支援したいと願うからなのか。
相手の成長そのものを自分の成果であり、喜びとみなすかということかもしれない。

確かに、無錫の桜だって、あげた後に年々手入れをしてきたのは地元の人だ。
何かもっと別の視点がないと、広がって行かない。
それについてハッとさせられ、考えさせらた。

これ、桜が満開の本日の北京なり。