日中出版、作家、翻訳いろいろ

昨日の晩は中国現代文学について話を聞いた。

閻連科さんは80年代に読んだ日本の小説で人生が変わったといっているという。その当時出版されていた『世界海外文学』などの雑誌は彼がいた洛陽や鄭州などの田舎の軍隊では非常に貴重で、わざわざそれを持っている軍隊の友人のところまで無賃乗車で取りに行った。バスの運転手に何しにどこへ行くのか問い詰められ、この雑誌を借りに鄭州まで行くといったら、運転手はそうか、乗れ、帰り道も俺の名前を言ってまた乗ってもいい、ただし条件がある。その雑誌を僕にも読ませてくれ、ということだったという。

そのボロボロになった雑誌を見せてもらったことがあると彼女は言っていた。そんな世界の文学が一気に入ってきて、貪るようにして読んだ時代があったということらしい。

今の中国の出版界は日本で言うなら80年代の様な活況があるらしい。とにかく外の翻訳文学が毎回トップ⒑の半分を占める。外の物への渇望がある。そして本を出版し、買う経済力がある。そういう外に向いて伸びているステージらしい。ラテン文学から、日本でもほとんど知られていない半世紀前の作家までかなりの数の外の文学がバシバシ翻訳されて中国の本屋に出ているらしい。その範囲の広さは日本以上だと思う、と言っていた。

日本の面白い本を中国で翻訳して出すのは、最近は版権の取り合いで、10社の競売になることも多いとか。中国は今、外のモノを渇望している。内向きで中国はもちろん、海外へ目が向かなくなってしまった日本とは実に対照的だ。

中国国内のいろんなことへの圧力は強まっている、と彼女も指摘する。
ノーベル賞の莫さんも、兄弟を書いた余華も最近はあんまり発言しなくなったという。やっぱりネットで叩かれたりして、いろいろ苦労したのだろう。その点、閻さんは、篤い人で、尖閣島の時も2,3行の村上春樹の文章へのコメントを求めたのに、1ページの手紙を書いてくれたという。あれは、本当にあの時すごく勇気のいることだったと思う。

それにしても、思っていることをまっすぐ発言できないというのは重い。
また、日本の出版界は厳しく、みんな本を買って読まないという。

それとは対照的に中国が外に向き、日本の本の版権を競うように取って、どんどん翻訳して出しているというこの事実は注目すべき。中国の市民はどんどん新しいものを吸収している。上向きの社会。それなのに、それを必死に抑え込もうとする政府も強大になっている。

これ、本日の出版界から見えてきた北京なり