「妻として」というコンセプトがないことの自由さ

大学は卒業シーズン。各学年ももう大詰めで、9月からは新しい学年に進級する。日本で言うなら3月みたいな感じだ。

ふと、小学校3年生の息子に「もうすぐ4年生だね。」と言った後、自分が小学校の頃に言われて、背筋を伸ばした先生の一言を思い出した「もうこれからは中学年です。4年生としての自覚を持って過ごしましょう」といわれて、そうか、もうピカピカの1,2年生ではないぞよ、と自分を見つめた記憶がある。

考えてみると、日本社会では〜としての自覚を持って引き締めて行動せよ、と言われることが実に多い。受験生としての自覚、学級委員としての自覚、キャプテンとしての自覚、社会人としての自覚、親としての自覚などなど。

今日も、亡くった麻央さんの記事でも「妻として〜」と書かれていた。これは、今日の日本では非常に馴染んだ価値観だ。自分がどう振る舞うか、その時どうしたらいいかと言うことは人は常に悩むけど、その指針となるのが、〜としてあるべき姿を演じるということだろう。

話が変わるが、最近知人から面白いアンケート調査の結果を見せてもらった。中国人男性と結婚した女性の中国での生活についてのアンケートだった。

日本の人は日本人妻はさぞ、中国で大変な目に遭っているだろうと想像するかもしれない。

ところが、このアンケートには中国人男性は家庭を大切にするから良かったなどと言う良い面があげられている。更に深く感心させられたのはこの点だ。
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日本人だと無意識、意識的に理想の母親像、妻像、家族像があるけれど、イメージや枠がないので非常に自由でやりやすい。それが一番よかった。毎日のご飯作りや子供の世話など私には当たり前のような家事なのに、すごく褒められるので、やりがいもあります。」
Yさん(小学生の母、中国滞在歴14年)

「Yさんもおっしゃっていますが、こうじゃないといけないというのではなく、一つ一つ形を作っていけばいいよと言ってくれるのが、何よりも中国人の夫に嫁いでよかったと思える点です。」
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なるほど。これは非常に大きな違いだ。

先日も中国人女性を妻に持つ日本人男性が嘆く声を聞いた。「妻として、もう少し食事とか掃除とかしてもらいたい。」という。ところが、実際彼の家にはお手伝いさんがいるので、妻がそうしなくても家は回っている。

奥さんはそれが何か?と言う意識だが、日本人男性からすると、「家のは妻として失格」となるようだ。

やはり、日本では枠が先にありきなのだ。有る、理想の形を求めるのは当然だし、良いことだが、日本の枠は二人で話してできた理想ではなく、むしろ、「当然そうあるべきだ」と言う枠だ。

自分の母親がそうしてくれたから相手にもそうしてもらいたい、ということなのかもしれない。この辺、相手によって使う言葉を変え、状況次第でいうことを変える日本人の文化がにじみ出ている。

周りがこう期待するから、〜としてふさわしいから、又はふさわしくないから、ということが人生においてとっても大切な価値基準になっている。

ところが、中国では違う。それは正しいから。そう、自分はしたいからということ意外に彼らを縛るものはない。特に夫婦においては、「妻として」という枠を男性が女性にはめようとしないため、単なる家事でも感謝される。そこに良い循環が生まれるように思う。

枠を外すのは、実はとても良いことかもしれない。妻としてではなく、一人の人間として、一人の自分のパートナーとして見たらずっと変わって見えてくるのかもしれない。

これ、暑かった本日に頭に浮かんだこと。